保土ヶ谷宿から東海道の最初の難所『権太坂』へ - 旧東海道の旅(10)
お久しぶりの旧東海道の旅です。
前のエントリーから3か月以上も空いてしまいました。
ブログに書くのが遅くなってしまいましたが、実際に歩いたのは9月の中旬。
この日は、神奈川県内、保土ヶ谷宿から藤沢宿までの19kmの旅を楽しみました。
このエントリーでは、保土ヶ谷宿を出てから、東海道の最初の難所である権太坂(ごんたざか)までの様子を紹介します。
『旧東海道の旅』のこれまで
久しぶりの旧東海道の旅についてのエントリーなので、簡単にこの旅のこれまでを振り返ってみます。
京急の北品川駅あたりを歩いていて、ふと見かけた『旧東海道』の文字。
「旧東海道ってどんなものか、旧東海道の周りには何があるのかを知ってみたい」という衝動にかられました。
これがこの旅のきっかけ。
翌週には、東海道の起点である日本橋に立っていました。
「旧東海道を歩いてみたら、江戸時代の旅人になったような気分になれて、色々と新しい発見があるかも」というのがこの旅の趣旨です。
旧東海道の旅の1日目は、東京・日本橋から川崎宿まで約20kmの旅。
東京のビル群は当時の姿とはかけ離れて過ぎていて、当時の姿を想像するのは困難でしたが、都内にこんな景色があるのかという発見がいくつもありました。
2日目は、川崎宿から保土ヶ谷宿まで約15km。
東京から離れてきたとはいえ、まだまだ都会のこのルート。
ここでも、まだ当時の面影が残っている場所はごくわずかでしたが、旧東海道について書かれた案内板がところどころにあり、東海道がどのようなものだったかおぼろげながらに見えてきました。
京都に着くのはいつになるかはわかりませんが、時間を見つけては西を目指して歩いています。
保土ヶ谷宿を出発
約2か月ぶりに戻ってきました保土ヶ谷駅。
保土ヶ谷駅
駅から前回の旅の終点である『本陣跡』まで移動します。
前のエントリー:
保土ヶ谷宿の本陣跡
本陣跡前から、この日の旅をスタート!
歩き出してすぐのところには、旅籠『本金子屋』跡。
明治2年に建て替えられたものだそうです。
歴史を感じさせる建物です!
本金子屋跡
格子戸が素敵です
本陣跡から500mほど歩くと、保土ヶ谷宿の"終わり"に到着します。
上方見附跡。
上方見附跡。上方見附は、各宿場の京都側の出入口に設けられた番所です
この上方見附跡には、一里塚(約3.9kmごとに旅行者の目印として築かれたした塚)もあったようです。
江戸から数えて8つ目の一里塚。日本橋から約31kmきたことになります。
上方見附跡のすぐそばには、外川(とがわ)神社へ続く仙人橋。
仙人橋。魅かれる名前です(*^-^*)
保土ヶ谷宿を離れるとすぐに旧東海道は国道1号線を離れます。
国道1号線と分岐
しばらく歩くと鳥居が連続になっている場所がありました。
こういう風景がふと現れるので、旧東海道歩きは楽しいです♪
鳥居の連続
連続した鳥居にはどういう意味があるのでしょうかね…
さらに進むと、国道1号線に戻ってきました。
国道1号線。ランドマークタワーがはっきりと見えます
国道1号線に戻ってきたのはいいのですが、何だか様子がおかしい。
それまで旧東海道の道案内がいたるところにあったのが急に無くなりました。
…調べてみると、道を間違えているではないですか!
来た道を少しだけ戻ります。
国道1号線にはランドマークタワーを見に来たってことで(^_^;)
東海道の最初の難所『権太坂』
国道1号線から正しいルートに戻るとそこには『権太坂』への入り口がありました。
権太坂への入り口。この標識に気づかずに、間違えて国道1号に出てしまいました
権太坂は、江戸から東海道の旅へ出た場合、はじめに経験する急坂でした。
権太坂(ごんたざか、英: Gonta Slope)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区にある旧東海道の坂の名称、また保土ケ谷区にある町名の一つである。現行行政地名は権太坂一丁目から権太坂三丁目。旧東海道を東京から西へ向かう際、最初の急勾配として知られる。権太坂(一番坂・二番坂)、焼餅坂、品濃坂と坂道が続き、旅の難所であった。
東海道の旅人のなかでは最初の難所として有名な坂だったらしく、浮世絵にもよく描かれていたそうです。
今日では、権太坂といえば、箱根駅伝で有名ですよね。
ただ、箱根駅伝では、この旧東海道の権太坂ではなく、並行する国道1号線にある坂を権太坂と呼んでいるそうです。
私の中には、権太坂と言えばこの箱根駅伝のイメージがあったので、権太坂=国道1号線だと思い込み、間違えて国道1号線の方へ行ってしまったのでした…
権太坂へ!噂通りの急坂でした
『権太坂陸橋』で保土ヶ谷バイパスを越えます
権太坂。響きがかっこよくて難所感が出ています
坂の途中、権太坂の由来が書かれた説明書きがありました
権太坂という名前は、坂の名前を聞かれた老人が間違えて自分の名前「権太」と言ってしまったという説と、藤田権左衛門という開発者の名前の「権左」が転じて「権太」になったという説があるそうです。
権太坂はなかなか登りごたえのある坂でした。
少しだけ、江戸時代の旅人気持ちが味わえた気がします(^-^)
権太坂を登り終えると、『境木立場跡』がありました。
武蔵の国と相模の国の境目です。
境木立場跡
境木立場跡の手前にある消防団のシャッターには、境木立場の浮世絵が描かれていました。こういう計らい、とっても良いなって思います
日本橋からずっと歩いてきた武蔵の国もここで終わり。
旧東海道の旅は相模の国へと続きます。
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